約20年ぶりに生まれ育った街、八戸を訪れてみた。
はじめに
自分は現在、秋田に住んでいるが、出身は青森県の八戸市。
そこで生まれ育ち、高校を卒業するまで過ごした。その場所は、自分自身を形成するにあたって、大きな影響を与えた場所のはずだ。
だが、自分は八戸の街が好きではなかった。だから、高校を卒業したと同時に八戸を出てしまったし、それと同時期に実家も処分しているので、成人になって以降、八戸を訪れるということや、当時の友人や知人との交流は、ほとんど持ってこなかった。
八戸の街を出てから、約20年。
今では、八戸で過ごした日々よりも、八戸以外で過ごした日々の方が長くなった。
あと僅かでで自分は40歳を迎えるが、なんとなく、自分のルーツを辿りたくなり、この3連休を使って久々に八戸の街を訪れてみた。
<目次>
- はじめに
- 「マチニワ」
- 八戸屋台村 みろく横丁
- 八戸の港
- 「蕪島」
- 小学校の思い出
- 中学校の思い出
- 高校の思い出
- 小中野地区に移動。
- じいちゃんと一緒に食べたそば
- 再び、中心街を歩く。
- 20年ぶりに街を訪れて
秋田を朝一で出発。
秋田から八戸は、車で4時間程度の距離。まっすぐに向かえばお昼にはたどり着く計算であるが、長距離ドライブは苦手だ。途中、色々と寄り道をし、八戸に到着したのはすっかり日が暮れた時間であった。
とりあえず、本日泊まるホテルの駐車場に車をとめ、八戸の街中を歩いてみた。
ちなみに八戸には、新幹線の乗り入れがある八戸駅と、中心街に位置する本八戸駅がある。一般的に八戸の街中とは、本八戸駅周辺のことを指す。
「マチニワ」
何やら新しげな施設がある。
「マチニワ」というらしい。
開放的なスペースだ。ステージや大型ビジョン等の設備があるので、ここはイベントスペースとして使われているのだろう。勉強している学生たちも見かける。
この施設が建つ前は、ここが、何でだったのかは思い出せない。
八戸屋台村 みろく横丁
この場所は、昔実家があった場所からさほど遠くはないので、よく覚えている。
ただ、八戸に住んでいた頃は、夜中に街中をうろつくようなことはなかったので、このような風景は新鮮だ。
ここは、「八戸屋台村 みろく横丁」という場所。平成14年に出来たらしく、20から30店舗の屋台が営業している。
結構、賑わっている。
繁華街の雰囲気は嫌いではないが、自分はお酒を全く飲まないので、さすがに1人では入りにくい。
今日は長距離ドライブで疲れたので、早めにホテルにて就寝。
八戸の港
翌朝、八戸の港を訪れてみた。
ゆっくりと立ち寄ったことはなかったが、この辺りは高校への通学路の一つの風景として覚えている。
今は禁止されているが、自転車に乗りながら好きな音楽を聴くことが楽しみの一つであった。
MDウォークマン、いやもしかしたらポータブルCDプレイヤーを使っていたかもしれない。今のようにiphoneに何百、何千という曲を端末に入れることもできず、何度も同じ曲をひたすらリピートして聴いていたと思う。たびたび起こる音飛びの問題に悩まされたことも覚えている。
「蕪島」
そして、すこし移動して、蕪島へ。
蕪島は、一応、八戸の観光地の一つである。
ここは、うみのこの繁殖地として有名だ。繁殖期には、この島は何万匹のうみねこでうめつくされるが、今は繁殖期ではないため、それほど多くのうみねこは見当たらない。
ここには、高校を卒業してから、1回だけ友人の車で訪れただけだ。通学路から、さほど離れていなかったにもかかわらず、当時は、この場所すら知らなかったので、思い出のようなものは全くない。
この蕪島の神社であるが、数年前に火災被害を受けたらしく、現在は再建中とのこと。島の敷地への立入が出来なかったので、遠くから撮影。
次は、自分の母校を訪れてみた。
小学校の思い出
まずは小学校。なんと跡形もなかった。どうやら学校は別の場所に移転したらしい。この跡地には何ができるのだろう。
小学校の頃の思い出
- お掃除当番とうものがあった。確か、学年関係なく割り当てがあった気がする。
-
お昼休み時間のドッチボール。給食を食べた直後にみんなで遊んだ記憶。食べ物を消化することなく、運動ってダメだよな。
-
放課後は毎日、学校のグランドで遊んでいた。一度自宅に戻り、ゲームボーイを持ってきて友人と遊ぶことが流行った。
- 一番遊んでいた友人が転校していき、寂しかった記憶。その友人は、秋田で就職したという情報は掴んだものの、一度も会えていない。
- チャゲ&飛鳥を聞き始めたのは、小学6年生ぐらいだったかな。
中学校の思い出
次は中学校。ここは、学校が、そのまま残されていた。
自分は幸いにも、学校の成績はそこそこ良く、教師から特段怒られるようなこともなく学校生活を過ごしたと記憶している。
自分自身が当時の教師の年齢と近い、あるいは年上となると、教師の仕事がいかに大変であるかが分かる。ついつい、生徒を殴ってしまうことも理解できなくはない。
中学の頃の思い出
- 中学ロボコンを広めた教員がいた(黄色いマツダrx7に乗っていた)
- とにかく、学校の運動着がダサかった。
- 男子は不良に憧れ、ぐれ始めてたな。
- 週刊少年ジャンプ全盛期。みんなでまわし読みしていた。
- 自分はサッカー部に所属していた。顧問も含め誰も正しい練習方法を知らなかったため、適当に練習。だからいつも一回戦負け。だが、走り込みと筋トレだけは人一倍していたので、身体的には鍛えることができた。たいしてサッカーに情熱はなかったものの、当時、三浦知良がイタリアのジェノバでプレーし始めたことは、胸を熱くさせるものがあったことは覚えている。
高校の思い出
最後は、高校。建物はそのままだったが、高校の名前が変わっていた。Wikipediaで調べたら自分の母校は他の高校と合併しており、この建物は他の高校が使っているらしい。
当時を思い返してみると、高校は、非常に緩かった。
決まり切った友人としか交流しなかったので、クラスでは一言も話したことのない人ばかり。
高校の頃の思い出
- きっかけは忘れたが、ギターにハマる。
- 当時は、小室哲哉ブーム
- 他校生の女子とお付き合いを始めた。顔ははっきりと覚えているが、名前が思い出せない。
- 今と違って物欲があったな。
- 「弟切草」等のサウンドノベルゲームにハマり、それがきっかけで小説を読む習慣がついた。
直ぐには思い出せないな。当時は写真を撮る手段がなかったので記録がほとんど残っていない。卒業アルバムも捨ててしまったし、もしかすると、自分が覚えている数少ない記憶も改変されているかもしれない。後で何か思い出したら追記していくか。
小中野地区に移動。
ここは、高校卒業間近に、同級生とよく訪れていたボーリング場。実際にはボーリングはせずに、ビリヤードばかりやっていた。
このボーリング場、建物自体はそのままであるが、どうやら潰れてしまったようだ。
ここら辺の道は覚えがある。
当時、一緒にバンドを組んでいた友人の家が、この近くだったはずだ。
高校生の頃は、とにかくギターに夢中だった。
アルバイトで貯めたなけなしのお金で、中古のエレキギターを購入。好きなアーティストの譜面をみて、必死で毎日練習していた。
今思えば、かなり状態の悪いギターだったのだろうな。それも分からずに購入してしまう高校生の頃の知識不足が痛々しい。
じいちゃんと一緒に食べたそば
お腹が減ったので、何か食べることにした。
入ったお店は、当時、じいちゃんがよく連れて行ってくれた蕎麦屋さん。
その蕎麦屋は、看板や店舗の場所は変わっていたが、まだ存在していた。
昔、よく食べていた「ごま香り」というざるそばを食べた。
あまり食に興味がないので、味の良し悪しは正直わからないが、自分はこのそばが好きなのだ。
お腹が満たされたので、歩くことにした。
昔から歩くことは好きだったが、今はスマホで音楽やラジオを聴きながら歩くことができるので、何時間でも歩いても全く苦にならない。
そうやって散策を続けていたら、あっという間に夜になっていた。
ホテルに戻り、就寝。
再び、中心街を歩く。
翌朝、秋田に戻る前に、また中心街を歩いてみた。
そういえば、高校の時に、レストランでアルバイトをしていたことを思い出した。
当時は、イトーヨーカドーのレストランで働いていたのだが、その建物はイトーヨーカドーではなく、今はCHINOの看板になっていた。
そして、その建物には映画館が入っていたが、それ以外のテナントはほとんど埋まっていなかった。
この階段の雰囲気は、なんとなく覚えがある。
というか、秋田のイトーヨーカドーと同じ感じだな。たぶん。
その他、当時、よく行っていた駄菓子屋やCDショップの場所も訪れてみたが、建物自体は存在しているのだが、どの店舗も営業していなかったり他のテナントが入居していた。
自分にとって懐かしいと思える場所が、もう存在せず形を変えてしまっている。
当たり前であるが、20年という日々は長いのだ。
20年ぶりに街を訪れて
ここに住んでいたころ、八戸の街が好きではなかったと書いた。でも、それは、八戸の街自体を嫌いなのではなく、八戸にいた頃の自分自身が嫌いだった。それは初めからわかり切ったことである。
あまりにも離れた時間が長かったせいだろうか。今回の20年ぶりに訪れた地元への旅の感覚は、昔訪れた観光地を再び訪れた感覚と代わり映えしなかった。
子どもから大人になり、地に足をつけて暮らすようになって、その街の良さが見えて来るような気がする。そうやって、自分が住む街を愛するようになり、と同時に自分自身のことも好きになる。
実際、自分は秋田に10年以上暮らしており、今ではすっかり秋田のことが好きになれている。そこには自分自身の変化だけでなく、身の回りにいた人たちの影響も強いのだろう。
自分が知っている誰かが、頑張ってくれたおかげで、街のどこかが便利になっている。もしかしたら、中心街で見かけたマチニワの施設の建設や計画に、同級生が関わっている可能性もある。そんなふうに考えてみると、一つ一つの建物すら愛着が湧くというものだ。
八戸の街には、10年後にでもまた、訪れてみようと思う。街の人間とは高校卒業以来、全く連絡をとっていないけど、次の機会には、必ず誰かと会ってゆっくりと話をしてみたい。
そうすれば、この街の違う景色も自分にも見えて来るのだと思う。